あなたはもう幸せなのに/守護霊様とおしゃべり!

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zoom RSS あとがきにかえて2

<<   作成日時 : 2008/09/02 22:20   >>

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 ★このように、「自分」や「自分たち」に固執しない。相手のことを考えつつ、まず動く。
T章に強調して書きました「因果律」ということは、のちの信仰の章ではあまり書きませんでしたけれど、この実践をして「相手のことを考えて」動いている時には、善い因果しか回りませんから大丈夫です。「果報は寝て待て」と言いますが、この場合の意味はおそらく、「よい結果や幸せのことばかり気にかけず、いったんそのことについては忘れて、自分のやるべきことをやって寝て待っていろ」ということでしょう。「あすのことを思いわずらうな」(マタイによる福音書六−三十四)という句にも通じます。事態をコントロールしようと思わなければ、とても気楽になるものです。

★ワンネスに思いを馳せる。
 神道も仏教も、全ての命の連鎖によって世界は成り立っていると言います。神様の似姿である人間が一番上さ、みたいなことをキリスト教は言いますが、こんな考えもよく見受けられます。「わたしがドイツのあるカソリック修道院を訪ねたときですが、その歓迎の辞を述べる院長は、『われわれカソリック教徒の願いは、神の恩寵による生命共同体を形成するにある』ということをはっきりといいました」(大森曹玄『禅の発想』講談社現代新書)――社会貢献が目覚しいという点でも、人との結びつきについてキリスト教が、真剣すぎるほどに取り組んでいることは間違いないでしょう。

★心を静めて内につながる。
 心身を清めるため無心に禊をする。そして自然と一体となって暮らし、山も海も神様で、常ならぬ人が死んだら神社に祀る神道は、どこにでもおわす神様が、自分の内にだけいない、などとは考えることもなく歴史を刻んだはずです。そしてあまりにも生活に溶け込んで、無色透明に近いほどの神道の国に暮らしている我々日本人は、今わざわざそのようなことが書かれたスピリチュアル本を買って読み、先祖代々知られていたことに初めて感心しているようなものです。
 仏教では、もちろん心を静めることは、もっとも重要な修行です。禅宗だけではなく、たいていの仏門では坐禅をしますし、朝から晩までのお勤めも静まった心で行うことが勧められます。考えるべきことがある時は、全身全霊で考えることが勧められるのです。それは心が静まっていることとは反対なのではないかと思われますが、実はほぼ同じ状態なのです。そして内なる仏性とつながり、自ら仏陀となるのです。――ただ、山や森の中にある閑静なお寺の中にいる時だけそれができたとしても、そんなにすごいことではありません。里の行と言いますか、ざわざわした都会の喧騒の中にいても、満員電車の中で押しつぶされていても、明鏡止水の心持で一人穏やかにいられてこそ本物です。そしてそれは、別にお坊さんでなくともできることです。やろうという決意さえあれば、誰にでもすぐ練習が始められます。どんな時も静かな心でいられてこそ、幸せな人と言えると思います。大きな喜びに躍り上がったり、すばらしい映画などに感動して泣いたりすることも、実際には心が穏やかでなくてはできないことですから。そのあげく内なる神様(仏様でも無論ok)につながることができたなら、もう不幸になることはあり得ません。
 そしてキリスト教でも、「神様との真実の一致は死んだあとだ」とは言うものの、自己を滅してキリストで満たすため、そして全ての隣人に対して常に平静に穏やかに愛を表すため、黙想や観想をして心をおさめることが求められます。仏教寺院もそうですが、キリスト教の修道院のあの静けさといったら、耳が痛くなるほどです。とは言っても、そこにいる時だけ静かだというのでは、やはりダメなのです。人々の闘争と欲望に溢れかえった世間に出ていって、それでもなおキリストに満たされたまま、穏やかな奉仕や活動ができるようでなくてはなりません。キリストという「愛」に満たされることなので、ここでも別にキリスト教徒でなくともよいのです。
 何を信じようが、また信じまいがよいのです。自分の内におわす神様は、何々教に独占されることはないですし、神様と呼ぶのに抵抗あらば、エネルギー、魂、愛、何でもよいのです。内につながることは、しかし、めったにできることではありませんから、まずはとにかく何も考えずに「ただ存在する」練習から始めましょう。静かな心が幸せの土台なのです。「キリスト教」の章以来何度も登場いただき恐縮ですが、例の日本人キリシタン霊いわく、「守護霊というものは、心の乱れている人間には手が出せない場合がほとんどである」とのことでした(また、「大望をもつ者は助け易いが」とも言われました)。

★今ここに生きる。
 これもまた精神世界――というか「幸せになりたい人の読む本」ではお約束のようなフレーズですが、本当に役に立つことです。一秒ずつ集中して生きていると、自分が幸せかどうかなどと考えている暇がないので、不幸になりようがないからです。「そんなことはない、私は今不幸だ」などと思うとしたら、「今ここ」を生きていない証拠です。「そんなのはごまかしじゃないの? 不幸な状況にいることから目をそむけているだけなのでは?」と考える人もいるでしょう。よい言葉を使われました! 不幸に見えるのは「状況」であって、あなたではありません。その状況を自身が「不幸なものではない」と決めてしまえば、不幸から脱け出せるのです。物事はただ起こり、それに色づけするのは自分だからです。一秒ずつ生きることは、自分で状況を不幸にする暇を作らない、すばらしい手立てなのです。

 そうです、あなたは「もう幸せなのに」、幸せになれるのに、自分でそうしていないだけなのです。

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