あなたはもう幸せなのに/守護霊様とおしゃべり!

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zoom RSS あとがきにかえて4

<<   作成日時 : 2008/09/02 22:14   >>

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 ただし、これもT章に書いたことの復習ですが、「どうしても、絶対に、何があっても叶えたい望みがあって、それが叶わないうちは自分は幸せになんかなれっこない!」と思い詰めている場合があります(性転換前の私のように)。今思えば、もし右記の「幸せの軌道」に乗ってしまえば、「それが叶わなくては幸せになれない」などということはない、とわかるのですが、現実に燃えたぎる悲願の炎に包まれていると、なかなかそこまで冷静になれず、「言われてることはよくわかるが、それでもやっぱり自分のこの望みは別だ」と言ってきかないものです(昔の私のように)。
 だったら仕方ない、その際はまずその望みを叶える方向に行きましょう。それについてはT章を再読いただければと思います。
 そうして望みを叶えるために必死である日々に突然に、あるいは望みが叶った時に突然に、人によってはポーン! と悟ってしまうことがあります。それも楽しみですし、もしも悟りもせずに望みも叶わなかったとしても、何かを目指して一途に必死に生きたその人生は、不幸なものではないはずです。「必死に生きていたあの日々が、本当に幸せの中にいたということなのだ」と気づくことができると思います。

 さて、T章で「私の守護霊様については、『あとがきにかえて』で詳しく」などと書いてしまったので、もしかすると途中を飛ばしてここを先に読んでいらっしゃる方が多いのではないかと思います。それもまたよしです。本文理解の助けになるかもしれません。
 実はあの「十七歳で修行中に死んだ真言宗のお坊さん」自体は、私の守護霊様ではありませんでした。いえ、やはり私の守護霊様でした。大きな意味で、です。私の、あの夢に出てきたお坊さんの「前世」が、「十七歳で修行中に死んだお坊さん」で、私の背中のお坊さん「その人」は、「やはり真言宗だけれども長く生きて高位、いわゆる阿じゃ梨様に就かれた」のだそうです(それではなぜ夢らしきものに出てきたお坊さんが、十七歳よりは年上にしても若く見えたかというと、あの世にいった時たいていの人は「二十六歳」の姿になるのだということを、何冊かの本の中で読んだことがありますから、きっと二十六歳当時のお姿だったのでしょう)。T章にも述べたように、前世は今の個体としての自分を含む「大きな自分」の中の一つですから、守護霊様ご自身の、その前世の人格と勘違いされてしまったとしても、大きな意味では同じ魂ではあるわけですけれども、今この世にいる人間一人一人のように数えた場合には、別の人と言うほうがわかり易いのかもしれません――いずれにしろ複雑ですね。
(しかし何と言いましても、これらのことがわかる人々と後年巡り合って、色々と教えていただき、かつ自分の親友が突如としてキリシタン霊と交信を始めてしまって、時々お呼ばれして様々な謎を解き明かしてもらえるというのは、なんとも贅沢でありがたいことです。キリシタン霊は、私の背中のお坊さんとも懇意で、彼が私の夢の中で空中に書いてくださった名前が、本当にその人の名前である、と断言してくれたりもしました。色々と教えられ、この世だけが全てではなく、死んだあとのほうがずっとずっと長くすばらしいのだと再確認できたこともまた、無上の幸福です。そしてもちろんその事実は、どんな宗教を信じる場合にも妨げになりません。どんな信仰の中にも、ある程度まで正しいことがきちんと述べられていますし、たいていの古今東西の神仏は同じ階層にいて、人間たちが「自分の信仰こそ一番だ」などと言っているのを嘆かれているとのことです。そしてもちろん性的少数者であることは、そのことであまりにも思い悩んで自分を傷つけたり、自暴自棄になったり、他人や社会を呪ったりして害を撒き散らしたとしたら別の話になるとしても、ただ「性的少数者である」と言うことだけでは、天国や極楽と言われている所の門をくぐるにあたり、まったく何も問題はない、とのことです・・・・・・と、信じていただければ最高なのですが。)

 さて私の守護霊様たちの話の続きですが、私の夢に出られたそのお坊さんは、私の守護霊団全体を束ねる人で、全体には他に五人のお坊さんと、なんと私にも一人の、ザビエル時代のキリシタンの人が付いていて下さるのだそうです! そして私の場合は、全員が私の前世であるということでした。真言宗、曹洞宗、浄土真宗のお坊さんたちとカトリックのキリシタンさんがいらっしゃる、ということになるのだそうです。
ここでまた少しT章の復習です。虎井が死んで別の人間になるという形の輪廻転生はなく、一つ一つの霊はそれぞれ段階を上がっていくのではないか、一つ一つの霊の個性というものは、最後まで残るのではないか、ということを書きましたけれど、少なくとも私の守護霊様たちを観た場合、全員が私の前世で類魂であって、しかも一人一人が宗派の異なる宗教家であるということは、死んでからずっと個性を保ったまま、上級霊に昇格しているわけです。そうしますと、やはり人の魂というのは多くの場合(おそらく例外も多々あるかもしれませんが)、死んでから全く他の誰かに生まれ変わるのではなく、人格を保持したまま階段をあがるタイプの人生というか霊生を歩んでいくものなのではないか、とさらに確信しました。また、もっと面白いと思ったのは、守護霊様のあいだに年代の重なる人が何人かいることです。同じ時代に別の地域で生きていた人々がいました。それでも類魂だというのです。ということは、本当に時間というものがあるのはこの世だけであって、実際には全ての前世の人生が一度に起こっているというのも真実なのだなあ、ということまでわかりました。そしてそのように様々な時代を生きて、それぞれ異なる信仰をしてきたとしても類魂であるということは、どんなに違いがあろうとも同じ大きな「私」であるということ、私という粒が混ざっているブドウの一房なのだということです。一粒一粒を別々に食べても、同じような味がするのです。ブドウの房を木につないでいるのが、霊団の長であるアジャリさまなのでしょう。そしてその大いなる木は、もちろん神様と呼ばれるエネルギーです。 
 まあこういう話は、ただのおとぎ話として読んでしまわれても仕方ないことでありますけれども、私はとても感動しました。七人全員(五十代になるともう一人キリシタン霊が増えて、八人になるそうです)が宗教家であったことは、私が子どもの頃から何かしら信仰というものに惹かれた理由になりますし、仏教的環境に常にありながら、いつもキリスト教的なものに憧れていた理由も判明したように思えました。どうして自分がそうなのか皆目わからなかったのですが、すっきりした気がしたのです。
(しかしそれにしても守護霊様みなさまがご立派な方のようなので、お守りを受けている私は四十半ばになろうというのに、こんなテイタラクでは本当に恥ずかしい思いです。私一人ヘンな味のブドウの一粒にならないように、精進せねばなりませんね!) 

 仏壇の横に十字架を飾った子どもの頃の私の原点が、彼らだったのです。
 そしてその行為が、私の原点でした。「男も女もなく、宗派にこだわらず、みんな一緒が楽しいよ」――ワンネス、です。
 それからも私は時々、背中の人々(とは言え常に視えるのは二、三人で、あとの方々は強い光にしか視えず、しかもどの方も背中に張り付いているのではなく、私のオーラの中に映るということでした。どなたの守護霊様も、その人のオーラの中に映るのです)を視てもらっているのですが、もちろん宗派も何もなく、一致団結してこんな私を導いてくださっているそうです。
 ありがたいことです。
 違いはあっても構わない、でも違いを越えて一つになる。私の守護霊様たちからもそれを教えられる思いです。これをお読み下さったあなたにも、このメッセージが真に響くことを祈ります。
そしてどうか、ご自分がすでに「幸せになることを選べる」状況にあることも、いつも覚えていてください。
さきほど私は、死んだあともすばらしい世界があることを知っているのは無上の幸福だ、と書きましたが、あの世の方々とやり取りしていて気づいたことは、そればかりではありませんでした。 
死んだあとももちろんすばらしいけれど、泣いたり、わめたいり、歯が痛かったり鼻炎になったり、悩んだり苦しんだりできるのも、この世に生きているあいだだけなのだ、なんと愛しいこの人生! と思えるようになったのです。本当に「あの世というものがあって魂は永続するのだ」と得心した場合には、多くの人が同じ思いを強く持つと言われます。そんなバカな、悩み苦しみがないほうがいいに決まってら、と昔の私は思っていたのですけれど、実際にこの世にいる間というのは、魂全体の無限の旅を見た時には、実に短いきらめきに過ぎないのだと思うようになるにつけ、「きょうはこんな嫌なことがあったけれど、これも今しか感じられないことなのだなあ」と愛しく思うようにさえなったのです。
「幸せになりたい」なんて考えるのも生きていればこそです。死んでもさらに上の世界にあがるために精進する道を、最終的には選ぶことになるのですが(何をしていても楽ちんだったり楽しかったりすることは、すぐに飽きてしまうらしいのです。停滞ということは、どこに行っても毒にも薬にもなりません)、身体を酷使して残業に耐えたり、人間関係のストレスでどうにかなりそうになったりということは全然ないのです。周囲がよくなってくれれば、と考えることはないのです。だって周囲は天国で、変えられるのは自分だけなのですから。まあそれは見方を変えれば、この世界でも同じことなのは何回か書きましたけれど、死んだ後はたいていの人にとっては、周りは文字通り天国なので、他に言い様がありません。不幸ということもあり得ないのです。
この世は、だから愛しいのです。魂にとっては、ほんの一瞬しか滞在しない世界なのです。そのあいだにどんなに多くの喜怒哀楽を感じて暮らしていくでしょうか。どんなに一生懸命に、ひたすらに生きていくでしょうか。「幸せになりたい」と思う気持ちもこの世だけのもの。ほんの一瞬を輝かせたいという、その切なる願い。ですから愛しいのです。
どうか、決心すればもう幸せでいられるということを、思い出してください、愛しいみなさん。


ありがとうございました。



 
 
 

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