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<<   作成日時 : 2008/09/03 16:12   >>

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日本人の根源
 冒頭に天皇陵のことを書きましたが、土地の気、そして古代の日本の風景に心打たれたという以上のことを書いたわけではありません。神道と言いますと、「天皇が天照大神の子孫で、万世一系でどうのこうのというアレだろ」と苦々しい思いを抱く人も少なくないのかもしれませんが、それは国家神道というもので、あとから付いた道の一つなのです。もともとは大自然に対する畏敬の念から始まったものであり、誰が開祖ということもありません(ずっと時代が下って、金光教、天理教など開祖をいただくものもできましたが、それらは教派神道と呼ばれ、また別のものです)。私も主に、原初から続くその「心」、日本人の根っこに民族宗教として横たわるものについてお話したいと思っています。
 発生は日本人そのものと同時ではないかと思われます。後述しますが、弥生時代にはもう目鼻がついていたようです。それから『古事記』『日本書紀』など、国の成り立ちの神話から天皇の系譜へと続く物語が書かれましたが、お経や聖書のような根本教典がないような古の神道にとっては、それらが教典にあたるのでしょう。
 とはいえそれが自分たちの「信仰」だということについては、我々のはるかなご先祖さまたちは自覚がなかったようなのです。「えっ、おれたちって何か信仰もってたわけ? 神道? あっ、毎日拝んでるあれのこと?」と日本人が気づいたのは、大陸から仏教文化が伝来してきた時だと言われます。つまりそれまでは、あらゆる神事やマツリゴトが生活の中に溶け込んでいて、と言うよりは「信仰の中に暮らしがあった」ために、自分たちが何かの信仰をしているのだなどと、とりたてて考えてみもしかったのです。
今の日本人も同じようなものかもしれません。私たちの生活を振り返っても、門松を立てる、お供えをする、神社に初詣をする、子どもが生まれたら初宮参り、七五三もお宮参り、秋祭りには宵宮が出て、神輿を担いで・・・・と様々な活動をするものの、一般的な慣わしや町内会の行事とでも思って、神道の行事だからやっているのだ、という強い自覚のある人は少ないのではないでしょうか。
「だって信者になんかなった覚えねーもん」と言う人が圧倒的多数だとも思われますが、自動的に、住んでいる場所に建つ神社の氏子だと見なされるのです。私は今までの人生の中で一度だけ引越しをしたので、氷川神社の氏子から鷲神社の氏子に変わったということになるのでしょうか。もちろんそんなことは役所からも誰からも告げられません。自覚する人がするだけです。信者集団というものでもなく、参加してもよいししなくてもよいし、他宗教を信仰しようと構わないという感じで、空気のようにそこにあるもの。けれども日本人なら誰でも、その気になればどこまでも深められる「神様との縁」、それが私が感じている神道、その大らかさだと思うのです。果たして日本人の民族宗教ではありますが、神様とのこの大いなるつながり方を世界の人が会得したら、この世の中はどんなに平和になるでしょうか。

神道の「今ここ」、言霊信仰
 T章でさかんに強調した「今、ここを生きる」ということは、神道においても言われているようです。「中今(なかいま)」という言葉があるのです。
 字面からすると過去と未来の中間の「今」ということで、実に見たままなのですが、神道の持つ一つの側面である祖先崇拝という点からすると、「過去のご先祖様から受け継いだものを未来の子孫へとつなげていくための大切な今だ。あだやおろそかにはすまい。今を盛りとすべきである」という考えでもあります。ただ単に「血、血統を連綿とつなげていくため」の今であると言った場合、望んでも子どもができない人々などにとっては酷ですから、「広く受け継いだ日本人の長所や誉めるべき点を、今からさらに未来へと大事につなげていく」と解釈すると、優しく普遍的なものになるでしょう。
 そしてもちろん「今ここ」という意味でもあります。「広辞苑」(第三版)には次のように載っています。
「過去と未来との真ん中の今。遠い無限の過去から遠い未来に至る間とてしての現在。現在を讃美していう語」
 それとは書いてありませんが、神代の昔の日本人も、「過去は終わったもの。未来はどうなるかわからないもの。唯一確実なのは今だ。今この瞬間こそが生なのだ」ということを、肌で感じていたのではないでしょうか。
 春日大社宮司である方の次のような文章も、まったく同感できます。
「現在も全力で努力はしていますよ。しかし、あとは神さまに導いていただくというのが、本当だと思います。/これが神道でいう中今です。これは日本人古来の生き方です。中今というのは、神道というか日本人の生き方で、これは過去でもない、未来でもない、現在のいまを全力で生きるということです。あとは神さまにお任せする。これが中今で、昔から言われている日本人の生き方です。これが本当だと思うんです。現在を生き切るということですね」(葉室頼秋『神道<いのち>を伝える』春秋社)
「今ここ」を生きるための「心静め」について、T章に長々と書きましたけれど、<神さまにお任せ>という気になった時は、努力しなくとも心は静かになるものです。私がとても大切にしている新聞の切り抜きは、その真実を一つの情景として完全に現している写真です。
 いつ何の新聞から切り取ったのかはわからないのですが、おそらくかなり以前に、どこかの写真コンクールの入賞作品の記事から切り取った記憶だけがあるのですけれども、私の字で小さく「神々の目覚め」とだけ、走り書きされている写真なのです。木々の間からおごそかに降り注ぐ陽光の中で、一人の男性がおじきをしている姿――その写真の中に他に人が映っているわけではありません。彼は陽光、というかその陽光を降り注いで下さる源に挨拶しているのでしょう。神道では天照大神という名前をもっているのかもしれません。
 実にこの、おそらく縮小して掲載されているのでありましょう小さな写真を観ているだけでも、心が静けさに満たされていく思いです。たぶん鳥の声以外に音もなく陽の光の中に一人たたずんでいれば心底、自分を含めたあらゆる命を生かす何か大いなるものに対し、深く畏敬の念を覚えて自然とこうべを垂れてしまうという、その瞬間。その時、人は何一つ無駄な思いを持たず、澄み切った心、神道でいう<清明心>を抱いているのです。そしてこの一瞬こそ、過去でもなく未来でもなく、強烈に「今ここ」に生きる姿の現れなのです。清き明き心で中今にある、古くから日本人の最高の姿とされているものです。
 これは後にも述べる、大自然の中で神とともにあった真の神道的日本人の姿でもあったのです。
 大自然の中で神とともに――と今、書きましたが、大自然そのものの中にいるということが神様の中にいるということ、また自分の内なる神と周囲に充満している神様とが響き合っている瞬間を生きることにほかなりません。
 また、これは神道がそれとして確立する以前から、すでに『万葉集』などに「言霊の幸ふ国(ことだまのさきはうくに)」といった表現が見られ、古くから日本ではいわれてきたことですが、「言霊信仰」というものがあります。言葉には霊が宿っているので、よいことを言えばよいことが起こり、悪いことを言えば悪いことが起きる、と信じられてきたのです。「言霊の幸ふ国」、言葉の霊妙な働きによって幸せをもたらす国とは、ズバリこの日本のことを指しているのでした。
 私がT章でも述べましたし、あるいは前々から数多の東西の現代に活躍するスピリチュアリストが、「たとえ不幸のどん底にいても、幸せだ幸せだと言っていればその通りになる。想いが現実を引き寄せるのだ」というようなことを書いてきましたけれども、そんなことは千何百年も前から、あるいはもっと前から日本の人々は、とっくに知っていたのです。
本当に、言霊の幸ふ国に生きていた初期の日本人は、今スピリチュアリズムで言われていることのほとんど全てを実行していたとも言えるでしょう。すばらしい民族だったのです(どうしてそのまま進んでこなかったのでしょう!)。その支えとなった神道――私が指しているのは前述したように、国家だの教派だの何だのとアタマに付かない頃の、「神の道」「惟神(かむながら。神の《御心の》まま、という意)の道」という素朴な信心のことなのですが、それもまた今の私たちが、新しい素晴らしい考えとして改めて学んでいることそのものだったのです。

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