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<<   作成日時 : 2008/09/03 16:10   >>

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八百万の神々
「そもそも遠い昔のこと、造化の気がしだいに凝りかたまっても、いまだに外に現れて来るにはいたらず、したがって名前もなければ、動きもない、誰もその形を知らないというそもそもの宇宙の初めに、天と地が分かれ・・・・神々が国を生み、島を生み、また神を生み、人を生んだ」
 これは神道の根本教典とも言える『古事記』の序文の一部です(福永武彦訳『現代語訳 古事記』河出文庫)。『古事記』は稗田阿礼という女性(と言われています)が暗誦していた神話、歴史を選択して太安万侶が記録したもので、元明天皇の命で作られた文書です。私にはそれほど面白いものではなかったのですが、現代にあって千年以上も前の作品を読むことができるというのはスリリングな経験で、ソクラテスの著述を初めて文庫で読んだ時と同じく、胴震いが出てしまいました。
 しかもこの部分を読んだ時など、よくNHKの科学番組などで流れる、ビッグバン直前の混沌とした、広大無辺なる宇宙のCG映像が思い出されたりもしました。生命が生み出される前に宇宙がカオスの中にあったなどと、どうして太古の人々は知っていたのでしょうか? はるか昔の人間たちは、もしかすると神様から直接色々聞かされていたのかもしれませんね!
「神様」――神道における神様とは、しかし、唯一絶対の神様ではないと言われます。古文や日本史で習ったと思いますが、日本は「八百万(やおよろず)の神々」がおわす国なのだそうです。もちろん文字通り八百万いらっしゃるというわけではなく、「ものすごくたくさん」ということです。いわゆる汎神論にたつわけです。キリスト教などは唯一神をかかげる「一神教」と言われ、唯一おわします神がこの世界全てを創られた、という立場であるわけですが、神道の場合、混沌の中に生成の気が充実して、やがて三柱の神が立たれ、それから後も次々と神が生まれてくるわけです。おひとかたではないわけです。日の神、月の神、火の神、水の神・・・・と、ありとあらゆる神様が生まれたのでした。あらゆる事物や現象に霊が宿ると考える立場はアニミズムと呼ばれますが、全ての事象に神を認めた古代日本人も、アニミズムを自然体得していた――と言うか、「実際そういうものなのだ」と識っていたのかもしれません。
(ちなみに私がお会いした霊能者の方々はどなたも、「天照大神その他、日本神話の神様たちも、他国の神話の神様たちも、実際にいらっしゃる。私たちは何人かをお見かけしたことがある。気象現象とか、山や海とか、そのような何かの象徴というものではない。そして日本のものも、おそらく他国のものもそうだが、古くからの祭りや習慣というものには必ず大切なそれぞれの意味があるのだ。また、さらに言わせてもらえば、日本は世界の国々と比較しても、かなり強い神様のおられる国である」とのことでした。芸術家の横尾忠則氏の著作でも同じようなことを読んだ記憶があります。) 
 さて、有名な大社でもすぐ近所の小さな神社でもよいのですが、神社というのは飾り気がなくて古色蒼然としていて、シンプルそのものの造りで、寺のように仏像があればまだもう少しピンと来るのですがそれもなくて鏡なんかが置かれているし、良さがわかるようになるためには、人によっては年期が必要だと思われます。けれども良さがわかるか否かは別として、なんとなく神さびた、おごそかな気というものが漂っているということは、たいていの神社において感じられると思うのです。
 仏教の影響がさかんだった頃に、実は神像というものも作られた時期があったのですが、神様とは形なきもの、という思い(これは全く正しいと思います)が一般的だったらしき昔の日本人は、神様をかたどるという考えを元々は持ちませんでした。江戸末期の国学者、平田篤胤著『古史伝』によると、カミのカは「彼(か)の」のこと、ミは「霊妙なるもの」ということだそうで、つまり神様とは「かの霊妙なるもの」であり、私が思うには「霊妙なる気」であって、T章で述べた大いなるエネルギーではないかと考えます。そうしますと確かに「これだ!」という形にはしづらいものです。
 そこで日本人は、そこに行くと神聖な気に打たれる山、それを観ると圧倒される巨岩、巨木、そのような自然の事物に神様(という霊妙なる気)が降臨するとみなし、それらを祀りました。そのような山や木などは依代(よりしろ)と呼ばれます。それらが存在した所に、神社の多くが建ったのです。つまり神社の建つ土地は、依代そのものの霊気と清明心をもってと祈る人々のエネルギーに、とても長いこと満たされてきたために清浄なのです。そして元々依代があった所、あるいは残っている所なので、直にそのような神様の気と感応し合えたであろう古代の人々にとって、神像は特に必要なかったのでしょう。
 このように神社というのは、その場所その土地を司る霊妙なる気、神様と結びついています。土地の神様が産土神(ウブスナガミ)、あるいは氏神(ウジガミ)で、ですからその土地に住む人は氏子になるわけです(ものすごく力のある神様は勧請される、すなわち分霊を他所に祀られることも多くなりました。同じような名前の神社が全国にたくさんあるのも、そのためです)。
 私が氏子になっている神社は、下町の中にある小さなものですけれども、やはりそれなりにおごそかで、他信仰をしている身ですが近くを通りかかった時は、氏子として手を合わせることはしています。
(全くの余談ですが、妻になってくれた人と初めて、「この度氏子入りした妻です。よろしく」とその神社を参拝した帰り、道の真ん中に真新しい長ネギの束が落ちていたので――道でネギを拾うということは私にとっては初めてのことでした――「ご利益あるもんだね〜」と感心して、ありがたくいただいて帰ってしまったことがあります。)
 ウチが入っているマンションから歩いて十分ほどの神社ですが、四階の部屋なので、ベランダから眺めると「ああ、あそこにある」とわかります。社殿は見えませんけれど、家々の屋根の間に、こんもりと木が繁っているのが目印なのです。

みんなでワッショイ
 このように大きくない神社でも、木を多く繁らせてその中に拝む所があるのが通常です。大社ともなると、広い森の中に社殿がありますね。「むらまつり」という歌は、「村の鎮守の神様の」という言葉で始まりますが、そのように神様は鎮守の森(=杜)の中に祀られることが多かったのです。
 木というものは素晴らしく、もちろんご神木になるものもありますが、そんじょそこらにある木でも、生き物にかかせない酸素を出してくれて、涼しい葉陰も作ってくれ、鳥や小動物の憩いの場にもなっています。そのようなありがたい木が集まって創られた森というのは、まさに生命、気が満ち溢れたパワースポットです。神社はその要なのです。
 また、全てに気が宿るという考えは神道では当たり前であり、山川草木が言葉を発する、というような記述も見られます。とても有名な「大祓祝詞(おおはらえののりと)」という祝詞がありますが、その中に「磐根 樹根立 草の片葉をも語止めて」という箇所があります。岩や木や草の一片の葉も話すのを止めて、ということです。つまり、いつもは普通に話しているというわけです。
 神様が人間のために動物や自然を創って下さった、動物や自然は人間が支配すべきものだ、という欧米的、一神教的考えとは大きく異なります。八百万の神々は全ての大自然に宿り、人間と全ての生き物はその中で暮らしているのです。自分たち、あるいは全ての生き物と神様とは、なんらかけはなれた存在ではないという「共生」の思想が、神道の根本なのです。これはT章でお話したことと、とても似通っていると思われます。
 あらゆる命あるものの営みでこの世は満ちている。神様はその全ての命と共にあってくださる。そして命を恵んで下さり採らせて下さる大自然そのものでもある。つまりご自分のものを分けてくださるのです。その神様に感謝を捧げよう、悦んでいただこうと行う具体的な催しが、祭りなのです。祭りの場で神様と人は、文字通り一体となると言えましょう。舞楽などに魅了される静静とした祭りでは荘厳な気配を。神輿を担ぎまわる熱狂の中ではただならぬ陶酔感を。いずれにしろ様々な祭りのあの非日常の空間で、普段の自分ではなくなったような感覚にとらわれた人も少なくないと思いますが、自分でそうと気づいていようといまいと、神様を間近に感じる「今ここ」の一瞬なのです。
 こういった感謝の土台となる恵みにも、海では漁の、山では猟の、と色々ありますが、日本人の食生活で古来のものというと稲作が挙げられるかと思います。そうしますとそれが形になってきた弥生時代から、神道そして感謝を捧げる祭りもそれなりの形ができてきたのでは、とする学者が少なくないとのことです。しかし日本人と同時に、たとえ神道という言葉そのものはなかったとしても(文献に見られる限りでは『日本書紀』が初めでした。仏教に対しての、我が国独自の信仰を指すために出現した言葉だったのです)、その心は発生していたのだ、とする人も多く、私もそれに賛成です。
 思うに昔の人ほど神様に近く、自然の精霊や動物の考えを解し、霊妙なる気の機嫌を察することができたはずですので、自分たちが全てとつながっていること、大いなるエネルギーの一部分であること、大いなる力に生かされていること、それらは特別に探究せずとも自明の理であり、だからこそ自然と感謝の心が湧いてきたはずなのです。
 大自然の事物に多くの神をみるアニミズム的な素朴な信仰は、古くから多くの民族、例えばネイティヴ・アメリカンなどにもみられるものですが、残念ながら先進国と自称するところからは、迷信っぽい未成熟なものと考えられてきたようです。しかし今まさにそれらの先進国を名乗るところで書かれている精神世界の本が、アニミズム礼賛に傾いているというのは不思議なものです。人間のためのもの、とおごり高ぶって破壊し続けてきた自然から手痛いしっぺ返しをくらいつつあり、態度を改めなくてはならなくなったのか、あるいは長い回り道をしてようやく、人類の真実に戻ってきたのかもしれません。

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