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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:53   >>

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 仏教については神道やキリスト教よりずっとずっと長くなってしまうだろうから、不公平に思われやしないかと懸念していましたが、書いてみましたら特に長くもならなかったので安心しました。なぜ長くなると思ったかというと、一国の民族宗教と言ってよい神道や、全世界に信者はいて様々な宗派はあるけれども、根本教典が旧約新約の聖書に絞られるキリスト教と違って、仏教は世界宗教でもあり、かつ「八万四千の法門」と言われるほど数多の経典を持ち、しかも原始仏教と我が国にて伝来してきた仏教を同じものと考えてよいとも言いづらいために説明も長引くかと思ったからです。もし少しでももっと多くの宗派について触れようと思ったら、ずっと長文になってしまったであろうと思います。
(もちろん神道やキリスト教についても言えることですが、各々の成り立ちや教えについて詳述することは、この本の目的ではありません。「幸せになる方法を、昔からこの教えではこんなふうに表現しているよ」という、この本のテーマに沿ったところだけを、易しく綴ってみようと思っています。どの教えも、宗教と呼ばれると「私は信者じゃないから」と引いてしまう人も多いと思うのですが、教養として身につけるだけでもとても豊かな行いですから、各々についてみなさま各自で色々と読まれることをお勧め致します。また、もしもこの本を読まれたことで少しでもそんな感じをもっていただけたら、とても幸いなことです。)
 さて、T章で述べました、虎井的精神世界研究で成り立った「幸せになる方法」、それに一番近いのが、私から言わせていただければ、仏教です。仏教が一番すばらしい、と言っているわけではありません、念のため。男も女もそうでない人も、みんなすばらしいのと同じです。ここでは特に、方法ということに関して仏教のやり方が近い、ということです。実に仏教においては、教祖を抱いて渇仰するようなものではなく、仏道と言ってよいほど、修行の方法について説いた実践解説が最重要ポイントではないかと思っています。おそらく西洋的合理主義に限界を感じた西欧のスピリチュアリスト(精神世界主義者)たちが、東洋に神秘を求めて辿り付いたのが仏教、なかんずく禅であり、そういうエッセンスを取り入れて様々な本を書き、それらを読んで感心したのが私のような人間ということになるのではと思います。
 結局私は手元にあるものに目をやらず、はるか遠くにいる人々から「おまえの所にあるそれ、それが絶品なんだよ」と教えられたようなものです。外国の人からよく、日本人が気づかない日本のよいところを指摘されるのと同じですね。
 そういうわけで、T章のハウツーと最も呼応する仏教。どのように響き合うのか、これから観ていきたいと思います。


目的を成し遂げる者
 私が最も愛する作家の一人、ヘルマン・ヘッセも東洋思想や仏教を深く愛した西洋人の一人でした。『シッダールタ』という名作も書いています。ご存知のように仏教の開祖の名前がゴータマ・シッダールタで、『シッダールタ』ももちろんそれを意識して書かれたものですけれどもこの作品は別に仏伝ではなく、同じ名をもつ一人の人間の人生について綴られたものです。そのシッダールタが、仏陀となったゴータマ・シッダールタと会う場面があるのですが、実に美しいのでご一読をお勧めします。
 シッダールタとは「目的を成し遂げる者」という意味です。ちなみにゴータマとは「最もよい牛」を意味します。
 よくおシャカさまとか、先述のようにブッダとか呼びますが、釈迦(しゃか)族の出身であるためシャカと呼ばれ、悟りを開いた人であるため仏陀(目覚めた人)と言うのです。釈尊というのは、シャカの尊称で、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)の略です。ここでは釈尊と呼ばせていただきましょう。
 最もよい牛、目的を果たす者、というすばらしい名を持つ釈尊は、ネパールとインドの国境にまたがる釈迦族の一小国の王スッドーダナと、マーヤー夫人とのあいだに生まれた、つまり王子でした。ですからものすごく贅沢な、何不自由ない環境で育ったのです。しかしそのうちに、人間には生老病死の苦があることに深く思いを馳せるようになり、二十九歳の時にとうとう城を飛び出してからは修行に励み、三十五にしてついに大悟し、仏陀となりました。その後四十五年のあいだ、弟子とともに教えを伝え歩き、八十歳で亡くなったと言われます。
 ほんの数行で書いてしまいましたが、この生涯があったからこそ、のちのち数え切れないほどの人々が救われていくわけです。


梵我一如
 釈尊が生まれる前からインドには、カースト制度という身分制度がありました。僧侶、王侯士族、農工商平民、奴隷というように人々を分けたのです。さらにこの下に不可触賤民とされた人までいるということです。そして一番尊ばれた僧侶(バラモン)が作り上げたバラモン教が、古代インド思想の源流となっていました。
 バラモンの聖典を「ヴェーダ」と呼び、その膨大な文献には、主に神々への讃歌が記されていました。その注解として「ブラーフマナ」と言う神学書群が作られ、それに付属する形で「ウパニシャッド」という宗教哲学書群が著されたのです。
 そのウパニシャッド哲学の根本をなすものには、今の私たちにも馴染み深いものが数々あります。いま「業(カルマ)――人々の幸不幸は前世の行い(業)の結果である」「輪廻――人々は死んでも生まれ変わって、苦労の多いこの世に戻ってくる」等です。有名な「梵我一如」の考え方もその一つです。
 これは実に、T章に書いたこととよく似ています。梵(ブラフマン)という宇宙の最高原理というものがあり(神様と言ってしまってよいのではないかと私は思いますが)、宇宙一切の事物事象、もちろん人間をも創り、そしてそれら全てを生かしている。つまり個々人の奥底にはブラフマンと同じものが宿っているのだ。我(アートマン)こそがブラフマンと同じものなのだ。宇宙、森羅万象と我は一つなのだ! 宇宙も我も絶対であり永遠なのだ! というわけです。各自の内なる神性について語ったT章に酷似している気がします。
 そして自分の中のアートマンを光り輝かせてブラフマンと合一すれば、全ての苦を超越することができるから、そのために修行せよということで、出家修行者は断食したり木から逆さにぶら下がり続けたりと、かなり過酷な苦行を長年続ける場合が多かったのです。
(実は釈尊も初めはそのようなことをしたのですが、いたずらに身体を痛めつけることで自分が望んでいるような悟りは得られないと気づき、それからは静かに禅定の修行に入り、或る朝ついに悟ったということです。)   
けれども、一人一人の内に宇宙の最高原理が宿ると分かっているのなら、全人がそういう意味で平等であることもわかりそうなものですが、バラモンや士族たちは一向に自分の下にいる階層の人々を省みることなく、自分たちのことだけに一所懸命になっていました。そのため、下層の人々は生活苦に喘いでいたのです。
 

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