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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:52   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


 釈尊やイエス様は、おとなしく物静かで決して激情にかられないイメージが強いですが、実はお二人とも各々が出現した当時の堕落した社会を改革すべく果敢に挑戦した、内面の熱い人々だったということです。
 釈尊は当時の、全ては一つと言われながらも公然たる差別がまかり通る状況を打破すべく、「我なんてものはないんだ! 永遠なるものなんてないんだ!」と説きました。
 仏教は唯一絶対神を掲げません。造物主たる永遠不滅の大いなる者も、不変の魂もないのだとします。自分の内に永遠不滅の我などないのだということになります。
 私は今回多くの仏教書を、初めてこれほどまでにたて続けに読むまで、仏教でいうところの「空(くう)」の意味を知りませんでした。文字通り、「カラッポ」のことだと思っていたのです。「空」だの、それからよく「無常」とか言うけれど、なんて虚無的な宗教なんだろう、そう言えば仏像ってそんな顔立ちが多いよなァ、などと思っていたのです。同じように考える多くの人々がいるのではないかと思われますが。
 しかし、そうではないと知ってから、仏像が愛しくなりました。得も言われぬほど充実した表情に見えてきたのです。「心一つで世界が変わる」ですね。
 空とは、「それそのものだけで独自に存在できるものはない」ということなのでした。
 毛糸玉を思い浮かべてみてください。始まりには、もちろん丸い玉を形づくっている毛糸が見えてくるでしょう。けれどもその毛糸の端を引っ張ってどんどんほどいていくと、最後には一本の長い毛糸が残るだけです。
 毛糸「玉」は、どこにいったのでしょう?
 元々、「毛糸玉」という確固たる不変のものはなかったのです。あったのは毛糸と、それを玉に丸めた手でした。それらの「縁」があったために、毛糸は玉になることができたのです。
 そして毛糸をとるための羊がいなければ、毛糸を丸める手を持つ人間がいなければ、その羊やその人間を産んだ親がいなければ、その親の親・・・がいなければ、その生き物が食べる草や魚やその他もろもろがなければ、その食料のもとを育てる太陽、空気、水がなければ、――その毛糸はあり得なかったのです。どんなものでもそれだけで成り立つことは不可能なのです。一つでも縁が抜ければ別のものになるか、存在が消えることでしょう。縁なくしては、どんなものもそれこそカラッポなのです。ほどくと消える毛糸玉のように・・・。
 これが「空」ということです。そして全ての生き物、全ての出来事はそれだけでは成り立たず、ありとあらゆるものとつながっているのだから、生きとし生けるもの皆仲間なのだ、という方向は、T章にいう「ワンネス」と土台を同じくしています。
 また「無常」ですが、これも「空」と関連しています。一切が皆空であるならば、一つとしてそのまま永遠に留まるものはあり得ない。どんなに堅固なものも、時が朽ちさせる。この世は一定ではない、常というものは無い。何もかも変わりゆく、移ろいゆく。そういうことです。
 これは諦観ではありません。「だからこそ一瞬一瞬をゆるがせにするな。今をしっかり生きよ」という強いメッセージなのです。
 かくして釈尊は、「梵と言い我と言うも、元々からあり永遠不滅のものだというが、そんなものはない。無我だ。それだけで成り立つものも、変わらないものもない」と発信しました。
「我を磨いて梵と一如になること」に、「我」があるのだという思いに執着することに、とらわれることそれ自体が「苦」ではないか、と彼は思ったわけです。苦とは、生老病死のように「自分の思うようにらないこと」を指します。あらゆる苦からの脱出をはかるために世俗的には最高の地位を捨てて修行を重ねた釈尊には、古くからあるそのとらわれと、その時代の僧侶たちの腐敗が嘆かわしかったのだと思われます。
 全てのものがみな一つの大いなる命であり、持ちつ持たれつ生きている。そして大いなるその一つの命、それは「仏性」というもので、永遠不滅の「我」にとらわれることなく、しかし移ろいゆく命の営みと共にいつも「仏性」は流れている――「仏性」については、さらに後述いたします。


日本の仏教
 はるか遠い昔に、真理を悟って説いて回った釈尊はインドの人と言ってよいと思いますが、仏教そのものはインドでは衰退していってしまったのです。もちろんすぐにではありません。長い間には本国で様々な部派も生まれていきました。そののちは本国よりも、アジア各国での拡がりが目覚ましいものでした。
 インドからスリランカ、そして東南アジアへ広まっていったものは、多くが上座部仏教と言われています(以前は小乗仏教と呼ばれていましたが、小乗――少ししか乗らない、というのはやや差別的ではないかということで、改められました)。そしてインドから中央アジアを経て中国に伝わり、中国土着のものとなった仏教が朝鮮へ、そしてそこから日本へと来ました。多くは大乗仏教でした。
 上座部仏教は、いわゆる出家修行僧たちのように、日常のあらゆる雑事を離れて悟りを得ることのみに専心できる人々のもの、自分の悟りが全て、という人々のものという色合いが濃いのですが、大乗となると僧侶は、「より多くの人々を救う手立てとなるべくまず自分が悟らねば。そしてみんなを彼岸へ渡してから私も行こう」という感覚になり、一般の人々にも道が開かれていったのです。
 日本にはこの大乗仏教が伝わったのですが、それはインドで起こった原始仏教とはかなり違ったもので、蓋し中国化されたものだったと言われます。中国の人々は現実的で、労働重視であり、働かずに修行ばかりして信者の布施で食べていく僧侶などあまりよく思わないわけで、伝わってきた当時にはかなり哲学的になっていた仏教の受け入れにもおおいに自国の味付けをしたことは考えられますが、根本的には仏教も「この現実の苦」を取り除く目的で始まったのですから、肌が合ったのではないかと思います。
 究極のよりどころを自己の内に求める教えですから、無神論ですし、この世重視だった釈尊は、死後の世界についての質問には沈黙したそうです。
 しかし、死後の世界について考えることは、仏教が伝播した国の多くで人々を惹きつけました。悪いことをすればひどい所に生まれ変わり、現世で功徳を積めば、来世によりよい所に生まれ変わる。善因善果、悪因悪果です。T章で出ました因果律の一種といってしまってよいと思います。こういった思いは、釈尊自身の考えの広まりというよりは、仏教そのものの拡がりに力を貸したのです。日本でも、元々神道というものが存在し、人間以外の高きもの、この世以外の場所に思いめぐらすことに馴れている国民を導くためということもあったのでしょう、特に浄土宗系統では極楽や地獄ということを盛んに言うようになりました。
 浄土宗系といった場合、主なものをあげると、浄土宗の日本の開祖は法然で、その弟子親鸞によって立てられたのが浄土真宗です。
 ひたすら坐禅を組んで自己鍛錬によって悟りを得る禅宗と違い、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えさえすれば阿弥陀仏の救いで極楽浄土へと往生する、と教えた浄土宗系は、易しい、「易行」だと言われます。また自力ではなく他力で救われるので、他力本願と呼ばれます。
 ただこの他力というのは、「阿弥陀仏の本願の力によって念仏させられるのだ。自分から唱えるものではない」ということで、自我の働きを無くして、お力によって動かされる、ということを意味します。
 自我を静めて、大きなエネルギーに従って生きる――T章につながるものがありますし、実はこの先述べる自力本願であるところの禅の境地とも同じものがあるのです。
 また易行などと言いますが、私の自分の信仰でも念仏ならぬ念神をよくやりますけれど、ひたすら唱え続けることができるのは、私の場合もって二分。どうしても様々な雑念が心に浮かんでしまいます。我を無くしてクリアな心で、しっかり念仏を続けるというのは、易行どころか、ものすごい難行であるように思えるのですが(かの徳川家康は一日に数万回「南無阿弥陀仏」と唱えていたというようなことを読んだ覚えがあります。その功徳で天下を取ったのか、その集中力のおかげなのかわかりませんが、ものすごいことですね)。

ZEN
 この浄土宗系の他にも、真言宗、禅宗、日蓮宗など様々な教えがあって、それぞれまた分派している現状ですが、ここでは禅を代表的に取り上げます。
 禅が仏教の中で最高であると――禅宗の人はおっしゃるでしょうが、私はそう思ってここで取り上げるわけではなく(どの教えもすばらしいと思っています)、ただ私が再び精神世界に目覚めたキッカケとなった諸本を書いた西洋のスピリチュアリスト達は、ことごとく東洋の思想に影響を受けており、なかんずく禅を非常に愛しているのです。今ではZENは国際語です。何かを頼りにするのではなく、坐禅という簡単(?)な方法で自分自身を高めて、ついに悟りに至るという方法が、西洋的合理主義にいきづまりを感じていた人々には、とても神秘的、魅力的に映ったのではないかと思います。
 しかし先に念仏のところで触れましたように、たとえ宗派が別のものでも、方法は違っても、全ては釈尊の心に通じていくものだと思います。また、ありとあらゆる苦行の末に釈尊が悟りを開いたのは、菩提樹の下で静かに坐っておられた時だというので、禅宗でなくとも修行の一貫として、坐禅することはあります。
 禅宗は、ダルマさんとして有名な菩提達磨が、インドから五世紀後半に中国に渡来し伝えたもので、中国では五つの派が成立しました。日本で二大禅宗として名高い臨済宗と曹洞宗は、その五派のうちの二つです。日本の臨済宗の開祖は栄西、曹洞宗の開祖は道元です。
 臨済宗の特徴は、公案(こうあん)と呼ばれるわけのわからないナゾナゾのような問題を出され(「片手で出す音とは?」など)、坐禅している間に一心にその答えを求めることです(坐っている間だけではなく、とにかく答えが出るまで考え抜きます)。「指をパチンと鳴らす!」などというのは論外でしょう。深い真理が宿っていると期待される答えを見つけねばならなすのですが、一つではありません。そして釈尊も面と向かったその人々一人一人に合った適切な説教をしたと言われるように、公案を出すお坊さん先生も、修行者一人一人に合った、各々違った問題を与えるのです。
 その答えがハッ! とひらめいたら、それが小さな悟りの瞬間です。
 曹洞禅は何も考えません。ただただ心を澄ませて黙々と坐る。只管端坐(しかんたざ)です。
 公案を一心に考えて集中することも、同様の効果があると思われます。
 このようにとにかく、心を乱さずにひたすらに坐る。その先に光が、悟りがある。これが坐禅です。
 とは言え禅の修行は、坐るだけではありません。行住坐臥、全ての行為において「禅=心を静め整えること」を実践するわけです。T章において、何をしていても心を静かに保つということを強調しましたが、全く同じです。そしてただ坐って心を静めるよりも、白隠禅師の名句に「動中の工夫は静中(じょうちゅう)の工夫に勝ること数倍す」とあるように、周囲がザワザワしていたり自分が動き回ったりしている時に心を静めるほうが、ずっと難しく、よい修行になるのです。

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