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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:50   >>

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今ここに心を静める
 ここを書いていて思い出すことがあります。まだ私がひとケタの年の頃、デパートのおもちゃ売り場で、一つのおもちゃ――というにはあまりにも面白みのない、ある物に魅せられてしまったことがありました。小さな水槽の中で丸い透明な玉が幾つか浮いたり沈んだりしているだけのもので、なぜそんな物に夢中になったのかわかりません。確か母か誰かを待っていて一人でいる時にそれに目を奪われ、じーっとその動きを視ているうちに、おもちゃ売り場ですから子どもたちの声がものすごくうるさかったでしょうけれど、だんだんとそのざわめきが薄れ、自分とその玉の動き以外の世界が消えてしまったような感覚になってしまったのでした。玉を見つめている自分と、その玉が別のものでないような感覚になってしまったのです。不思議な感覚でした。そしてどんなに年を重ねてもその感覚がとても心地よかったことだけは覚えているのです。玉のゆらゆらした動きに催眠術をかけられてしまったのかとも思いますが、知覚はかなり研ぎ澄まされていましたし、眠くもありませんでした。ただ、我を忘れて集中していました。どうもあの感じが、私の一番古い「今ここ・無我」の記憶であるようです。なんとかあの時と同じような感覚を、常に持っていられるようになれたらと思うのですが、あれから三十年以上経ちますし、心に様々なゴミを貯めすぎてしまっているかもしれません・・・。
(T章に書きました、テラスで夜空を見上げていた時に一体感を感じた云々ということはありましたが、あの時はわりと湧きあがる形の一体感だったのですけれど、この子どもの頃のオモチャとの一体感は、とても静謐なものでした。とは言っても、同じ事柄の静の面と同の面かもしれませんが・・・・。)
 心を静め、無心に何かをしていると、私たちはその行為に「なりきる」のです。歩いていれば「歩行」になり、自分が歩いているということがハッキリわかりますし、坐っていれば「坐り」そして「呼吸」になり、自分が坐って息をしていることがわかります。それらの時間に他の思考が入り込まなければ、集中していれば、「今ここ」に生きていると言えるのです。
 昨日の失敗をまざまざと頭の中で再現したり、まだ来ぬ借金返済期限のことなどクヨクヨ心配したりしながら歩くより、歩行そのものに集中し、すっきりした無の心で歩く方が、心安らかな時間を過ごせることでしょう。「即今此処(今ここ)」を生きる、ということは禅において最も大切な態度の一つです。
 私の尊敬するヴェトナム人禅師は、次のように書いています――「多くの修行者は、坐禅は悟りという目的を達成するための単なる手段であると考えがちです。しかし、実際には、手段と目的のあいだにはっきりした境界線を引くことはできないのです。忘念(forgetfullness)の状態から正念(mindfullness)の状態へと転じることができたなら、それはもうすでに真の目覚めであり覚りなのです。曹洞禅で『坐禅を行ずることがすなわち仏であることだ』といわれるのは、そのためです。本当に坐禅を行ずるとき、人は自分がはっきりと覚めていることを知ります。この目覚めている状態こそが仏そのものなのです」(ティク・ナット・ハン著、藤田一照訳『禅への鍵』春秋社)
 仏である、覚者である、ということは、では、「歩いている時に、歩いているとわかるくらい心が静まっている」だけでよいものでしょうか。さとり(悟り・覚り)というものがものすごい大きなことであると思っている場合には、そんなことでは簡単すぎるように感じますが、「よい」と言ってしまって大丈夫ではないかと思います。心を静めている時、無我の時に内から出てくるもの、それこそが「仏性」だからです。
これはT章で述べた「内なる神」と同義である、と言ってよいと思います。ブラフマンのような永遠不滅のもの――ではあるにせよ、一秒たりとも固定された状態ではない無常の、躍動する超大なエネルギーであり、全てを一つに統べるもの、善も悪も超越したものです。
 人は一人一人、内側に「それ」を宿しているのであって、心静め(禅)を続けていればそれが露わになって、仏であり続けられるのです。
「般舟三昧経」には、「想いがなければ悟りである」という意味の詩句がありますし、「法句経」には「自己によりてのみ悪は造られ、自己によりてのみ染汚あり。自己によりてのみ悪は止められ、自己によりてのみ浄化あり。浄と不浄とは自己に属す、何人も他を浄化する能ず」とあります。
 かくの如くすべては自己――自分の思い、心の働きのなせるわざであるなら、それらを持たなければ、「思い」さえ持たなければ、「思い」通りにならないこと、すなわち「苦」はあり得ず、苦がないということは、すなわち解脱、悟りなのです。
 自己のない無心を保ちつつ、坐ったり、歩いたり、食べたりして暮らす。一つ一つのことに集中して暮らす時、そのこと以外に何が必要でしょうか。そう感得したら、それが釈尊の心です。
 そして、実行は難しいですが、たとえ天変地異のさなかにあってもこの心の「平らかさ」さえ保っていることができれば、私たちは不幸になり得ないのです。
 この心を保つ修行はそういうわけで、お坊さんにならなくとも日常生活上で十分できます。悩み多き現代人もよく参禅するようですが、ほんの少し昔でも、在家のままで禅の道を深めた人々は多くおりました。
 その中の大人物の一人に、哲学者の西田幾多郎(一八七〇−一九四五)が挙げられます。考え事に没頭して歩いていて、ポストにぶつかって、ポストだと気づかずに謝った、という有名なエピソードからも、並々ならぬ集中力を感じることができるでしょう。
 彼の大著に、まるで「禅」という語にひっかけたかのような『善の研究』というタイトルのものがあります。これはまさに、全編この本のT章を難解な言葉で書いたものと言ってよいように思われます。もちろんもっとずっと名作ですが。今みなさんが読まれているこの本を即刻投げ打って、読むべきものが『善の研究』かもしれません、とってもムズカシイ本ですけど。私はこの本を読んでいる時ほど、自分の、あるかなき「理解力」というものを総動員させている、と感じたことはありませんでした。毎日忙しいから、とにかく一度の読みで全てわかろうと思ったわけでもありませんし、受験勉強をしている時のように、時間はあるけれどなんとか一度でわかろう、と思ったわけでもないのです。精神世界好きにとっては、あまりにも面白いのでずんずん先に読み進めなくては気がすまないけれど、そのためには全ての文章を一度で読解したいけれど、なかなかアタマがついていかなくて泣いてしまう、といったところでしょうか。それでも読書の醍醐味は満喫した思いです。あまり硬い本を読まない、現代の特に若い人には確かに難しいかもしれませんが、ぜひ手にとってほしいと思いました。何か特に興味をもった本を、一点集中の気迫をもって読み進めている間というのは、公案を考えている時のような、また頭をカラッポにして坐禅している時のような、つまり心静めと同じ効果があるように思われます。
 学校の社会科や思想史のテストのマス埋めによく出てくる、「純粋経験」や「主客合一」という言葉は、この西田哲学が生んだ大切な言葉で、どちらも禅の境地に深く通じています。
(昔の人々はすごいなあ、と感心します。今の私のこの本のテーマになりますが、どうして昔すでに書かれていることが、現在に活かされていないのでしょうか。今ちまたに溢れている精神世界の本の多くは、実に『善の研究』の焼き直しとしか思えないのです。また今回の私の本では出てこないのが申し訳ないのですが、西田幾多郎の友人で、大乗仏教、特に禅を初めて欧米の思想界に紹介した、大学者にして大禅者の鈴木大拙《一九八〇−一九六六》の膨大な著作の数々も、どれもこれも珠玉です! ぜひご一読を。)
「経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、★(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである」
「我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば★に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而(しか)して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而かしてこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇(よみがえ)るのである」(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫)


もう一度、仏性
 なんだかしつこいですが、とても大切なことなので再び書かせてください。
 右に「真の自己、宇宙の本体」と言うのも、いわゆるT章の「内なる神(エネルギー)」であり、仏教でいう「仏性」です。心静かに、仏性が内に満ちている、と悟ることが成仏です。元々から仏であったと気づくことなのです。盤珪禅師という人も「仏になろうとしょうより仏でおるが、造作がのうて近道でござるわいの」と言っています。
 そして「内なる神」はT章で述べたように、また神道の項で述べたように、ただ人間にのみ宿るものではないのと同じく、仏性(同じものですが)もまた、人間のみに宿るものではないのです。このことは仏教でのほうが、よりはっきり記されているかもしれません。
 ゴータマ・シッダールタが大悟して仏陀となった時に、「奇なるかな奇なるかな、一切衆生草木国土悉く如来の徳相を具有す」と叫んだというのです。
 如来というのは仏陀と同じ意味です(固有名詞ではなく、そういった特質を備えたかた全てを指します)。つまり、仏として覚醒したとたん、「なんとも不思議だ、全ての生きとし生けるもの、草も木も大地も皆、仏と同じ特長を持っている」とわかったというのです、「一切衆生悉有仏性」であると。
 「自らがすでに仏性を持っている(元から仏である)」「自分だけではなく、生きとし生けるもの全てが同じく仏性を持っている」――この点に心の底から目覚めることが、悟りであり、成仏なのです。
 私たちは、本当に元々わかっていることを忘れ果てているために、大変な苦労をしているだけかもしれません。そして「元々わかっていること」を思い出す過程が修行であり、その修行そのものと「元々わかっていること」が同じことなのだということにも、その過程で気づくのです。
 この宇宙には秘密などなく、全てさらけだされているのだけれども、あまりにも日常のことで心を動かしすぎているために、見る眼が曇っているだけなのだと、気づくのです。

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