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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:44   >>

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菩薩行
 先ほど「如来と仏陀は同じもの」と書きましたが、では「菩薩と如来」はどう違うのでしょうか。観世音菩薩や阿弥陀如来という名称などありますが、菩薩というのは仏陀(目覚めた人)ではないのでしょうか。
 菩薩(菩提薩タ★)は、元来は悟る前の仏陀、つまりシッダールタを指していましたが、大乗仏教に入って、悟りを求め修行する人のこと、そして悟れる一歩手前で踏みとどまり、あるいは悟ったけれどまたその前の段階に戻ってきて、「私よりまずあなたがたを先に彼岸に渡しましょう。私よりあなたがたの救いのほうが先です」と言ってくださり実際にそのために働いてくださる人々、「生涯現役で世のため人のため尽くそう」と決心し、あえて仏陀にならない人々のことも指します。
 なんともありがたい方々です。
 私は、のちにキリスト教の章で触れようと思いますが、世のため人のために尽くそうという場合、どうもキリスト教の方に軍配があがるような気が、長いことしていました。キリスト者は全員がそうだとは言えないかもしれませんが、とにかく「人々に尽くすのは神様にしているのと同じこと」とばかりに、自分を滅して人のために働く印象があるのです。それに較べると、「印象」として仏教徒は、大乗仏教の場合であっても、「まずは自分の悟りが優先。人のことは、悪いが後から」というものがあったのです。
 しかし今回色々学んでみて、それは観点が違うのだ、ということがわかりました。キリスト教は仏教と比較した時には、外から救いが来る教えと言ってよいと思われますし(本当にそうであるかは別として、概してそのように比較されますし)、仏教は無神論なので、自分の内に救いを求めると言えるからです。
 キリスト教は、信仰を通じてのそれはもちろんのこと、信仰をもたない人でも困窮している人には食べ物や庇護や看病など、外から与えられるものごとを通じて神の愛を伝え、外からの救いで啓発し、愛と感謝を育ませようとする、というようなことが言われます。
仏教の場合は、もちろん私の知らないだけで多くの社会事業が営まれているはずですが、「どんなにひどい状況にあろうと自分の内側が平安ならば問題はないのと同じことだから、そのようになる方法を人々に伝えるほうが、究極の救いになるのではないか。しかしそうするためには、まず自分が悟らなければ伝えることはできない。だからこそまず自分の完成に努めよう」と考えるように思います。物質的に窮乏している人にとっては、「それこそ今ここの救いが必要なのに何をノンキな」と泣きたくなるような話ですが、本当に何物にも揺るがない内側の平安を得ることができたとしたら、それは確かに応急手当以上の効果をあげる方法ですね。
 そして先述のように、ざわついた日常生活の中での修行は、静かな所でのそれよりもずっと完成が難しいので、少しでも早く人の救いのために自分の悟りを完成させたい修行僧たちは、俗世を離れて静かに坐るのです。
「精神が散乱していたのでは有意義な活動ができない。静慮は精神を安定させる作用をする。活動的な人ほど静慮が必要である。ボサツは自分の精神を安定させると同時に、相手を指導してその精神を安定させる。それによって自他ともに理想の境地(ネハン)に到達することを期するのである」(渡辺照宏『仏教』岩波新書)
 なんと「心静め」は仏教のアルファでありオメガであることでしょう・・・!
 たいていの人々は、自分が悟ってしまえばもう何も問題は――外側で起きたとしても自分の内側がそれによって乱されることは――ないわけですから、それでよしとして他人のことまで考えないことでしょう。けれども菩薩行はそれで終わりではありません。仏教でも因果律はしっかり説かれており、善なる行為をした者には善き結果が、今生か来世にかえってくることになっています。しかしそれを期待して人々を救おうと思っているわけではないのです。
 自分と他人は二つではない、自他不二、全てが一つである。だから他の人々、一切衆生の悟りが完成しないと自分の悟りも完成しないことになる。全にして一の悟りを目指しているのではないでしょうか。

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