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zoom RSS 仏教6

<<   作成日時 : 2008/09/03 14:43   >>

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大きな楽しみ
 仏教には本当に様々な宗派がありますが、また、もしかしてそれぞれの派によっては同じことを違う名で読んでいるかもしれませんが(ここには大筋と絡まないため書きませんでしたが、人生を輝かせるすばらしい言葉や逸話は、諸宗経典の中にザクザク見つかります。現代語訳で読むと、なんともわけのわからなかったお経がこんなに面白いものがだったんだ、という発見もきっとあるでしょう。ご自分の信仰があってもそれはそれ、ぜひ書物として楽しんでみてください)、この点はどこも外してないと思います。
 T章で言うような大宇宙のエネルギーと自分との合一ということは、禅よりも真言宗、真言密教の方が、より端的に打ち出していることではあります。大体、宇宙エネルギーとの合一などと書くとどうしても梵我一如を連想してしまい、仏教と呼びづらくなりそうなものですが、大宇宙のエネルギーも自分の内なるエネルギーも――結局は同じものですが――一定のものではなく、あらゆる縁によって常に変化し拡張するものなので、実は仏教的ではあると私は思います。そしてそれを神性、仏性と同等に呼ぶことに不都合も感じません。
 禅の場合は自分を磨いて仏性に目覚めるわけですが、仏教諸宗の中でも後の方にできた密教では、もうすでに今の自分が仏なのだ、もうすでにこの世が浄土なのだ、という現実大肯定から出発していきます。禅をT章的に言うと、「自分の内なる仏性を心静めによって磨き、内外区別なく仏性が満ちていることに目覚めよう」ということになり、密教をT章的に言うと、「内にも外にも同じ仏性があるのだとしたら、まあ内側のものがまだ輝き出してないにしても、いずれにしろ初めから自分は仏ではないか。では、仏らしく生きてみよう」ということになるかと思います。どちらの宗派にも属さない私から観ると、まさにどちらも正しいのです。禅の中でも、「坐っている間は仏である」という考えもあります。
 けれども菩薩行の全ては、密教の主要経典である「理趣経」にあります「大楽(たいらく)」という言葉と同じ意味内容に結びつきます。おそらくどの宗派にも、同じことを表す言葉があるとは思いますが、私はこのスケールの大きな言葉が好きです。
 美術品に表されています如来や菩薩たちは、それほど嬉しそうな笑顔ではありませんけれど、真にこの大楽を会得した場合というのは、実に大笑するよりもあのような満足げな微笑みを浮かべるものかもしれませんね。
「大楽は、相対的な楽しみではなく、絶対的な楽しみです。絶対的な楽しみというのは、結局、自分を捨てているということです。自分を残していたら、自分を中心として判断しますから、すぐに楽しみが苦しみに変わってしまいます。ですから、自分を捨てて人のためにつくすというのが絶対的楽しみ、大楽なのです。理想像としてそういう大きな楽しみを作り出しなさいと説きます」(松長有慶『理趣経』中公文庫)
 T章と最も呼応する仏教。「心静め」「肉体の中の自分のみが『自分』なのではない」「ワンネス」というテーマなど、実に共通しています。しかしT章の実践で得られるよりもはるかに大きな楽しみの掴み方を、私たちに示してくれているのです。本当のワンネスに生きる時、自分のことは自然と後回しになり、何かを誰かのためにしても、それを他人のためにしたことだとはツユとも思えず、だいたいそんなこと自体考えず、人が喜べば自分も嬉しい。心からそう感じられる時、それこそが真に幸いな瞬間なのだということを、静かに大らかに諭してくれるのです。

 このようにつまみ食い的に観ただけでも、仏教そのものが内蔵している「T章らしさ」は、かなりのものがあります。西洋のスピリチュアリストがハマるのもうなずけます。
 しかしその西洋の人々の土台をなしているキリスト教は、では、そんなにも今までのものとかけ離れているのでしょうか。私もなんだかんだと折りに触れて文句を言ってきてしまいましたが、それだけに愛着をもっているのも確かであり、今までのものと隔たりがあるどころか、どうも共通しているところが多いように思われるのですが・・・・。

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