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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:36   >>

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父と子と聖霊と
 いかに大好きとは言え、にわか勉強の私にも、なんとなく本能的にすり寄れる点と、同じく本能的に避けたい点が、キリスト「教」にはあるのです。
 もちろん、一緒くたにして一口に語れるものではありません。仏教ほどの数ではないにしてもキリスト教にも、かなりの分裂・分派がありました。正統教会と異端教会、東方教会と西方教会、カトリックとプロテスタント、法定教会と自由教会、等々。信者ではない人が一番よく聞くのは、カトリックとプロテスタントではないでしょうか。それでもその違いがわかる日本人は、それほど多くないと思います。
 日本のキリスト教人口は、神道や仏教と較べると格段に少ないです。これはとても残念なことです。日本的キリスト教が世界のスタンダードになれば、おそらくこの世はもっと平和になるでしょうから。そのことについては、後でも述べます。
 さて、キリスト教の正統と異端を分けるのは、三位一体という考えを受け入れるかどうかで決まるという人が多いそうです。「三位一体」とは、神様が「父」と「子」と「聖霊」という三つの位相をもち、子にあたるのがイエス様で、人間と同じ肉体をもちつつ同時に神である、とする立場です。「いや、イエス様は神そのものだ」とする人々や、「いや、イエス様は神様に最も近い<人間>だ」とするような人々は、異端とされています。
 私はT章的視点から、三位一体論を支持します。人はみな、神であり(内なる神を持ち)、人なのですから。しかしこれでは全人類がキリストになり得てしまうので、最大の異端でしょうか――全人類はキリストになり得ますし、イエスさまもそれを望まれると思いますが。
 ただどうしても、なんとなくわかったようでいてわからなかったのが「聖霊」というものでした。似た言葉である精霊というイメージが邪魔してか、「神の活動的な側面」だの「彫刻家ではなく、彼が使うノミではなく、彼とノミを動かすもの」だの言われてわかったような気がしても、では説明してみろ、と言われてできるかと言うと怪しかったのです。
 ところがある日、次のように説明してくれた人がいて、ストンと落ちたように感じました。
「聖霊とは神の、人に対する力の行使である。聖霊なくば誰も人に力を働かせることはできない。聖霊は、人の言う(神の)力の通り道である」
 つまり――それでも私には言い表しづらいですが、神様の「場」「エネルギー」――そういったものだと思っていいのだ、と感じました。
 T章的にはどう言ったらよいのでしょう? 難しいですが、魂、神様とつながろうという思いを抱かしめるもの、その実践のためのエネルギーという感じでしょうか。後述しますが、キリスト教においては神様は「外からの働きかけ」「流入」 という考えが多いように思うので、そういうとらえ方をすると、聖霊が働く、という感覚がわかり易いのかもしれません。
(ああ、私はこれを書かずにはいられません、たとえオカシイ奴だと思われてもです! この章の冒頭にも書きましたので、勇気を出して記してしまいますが、どなたが私に聖霊について説明してくれたと思いますか? 私の大親友がチャネリングした、ザビエル時代の日本人キリシタンの一人なのです! 彼はその他のことをたくさん教えてくれました。自分にも私たちにも厳しい人で、色々叱咤激励されるところがあり、何百年も前に生きてこの世にいた人とこのようにしてコンタクトが取れる、というのは異様なほどの感動体験です。もしかすると親友が無意識に書いているものかと、私も親友自身も長いこと疑ったのですが、クリスチャンではない私たちが、全く知りえないことを次々と教えてくれるので、しかもどう考えても親友自身とは違うはっきりとした性格と物のの言い方<親友自体は絶対、七を「しち」と言うのですが、書記上では例外なく「なな」と書かれる等>を持っているので、どうしても信じざるを得ない、と私個人は考えています。この御霊は、すでに聖書がどのくらい編纂されているかについては承知していて、しかも聖書で禁じられていることがそのまま本当に神様に禁じられていることかどうかということについても、かなり昔とは異なる意見をもっているようです。それでもなお、彼の信仰は死しても揺らぎません。実にこの時代、そしてそのあとの禁教令時代を生きた多くのキリシタンの信仰と同じほど、篤いものを持っている信者は、今どのくらいいるものでしょうか。殉教できるほどの人が果たして日本にいるでしょうか、もちろんキリスト教に限ったことではないですが。私などは「殺すぞ」と脅されたら、コロッと自分の信仰を捨ててしまうのではないかと思います。純粋きわまる信仰を持ち、「人生の中の信仰」ではなく「信仰の中の人生」を生きた人々は、あの世でもなお、いと高き主をあがめています。ただ、この主については、キリスト教が独占している神様だなどとは決して言いませんでした――などと書いて、信じていただけたら幸いなのですが・・・・)

ここに異議あり
 僭越ながら、わざわざ異議についての小見出しをつけたりなどしたため、実際にはキリスト教の章が一番長くなってしまいました。しかしどうしても、国際的にみればどう見てもキリスト教関係者から虐げられている側の人間として、書かずにはいられません。どうかお許しください。
八百万の神々がいたり、ありとあらゆる如来や菩薩が連なる日本の宗教界をみても、神社に参拝し寺に墓参りし教会で結婚式を挙げる国民生活をみても、伝来された昔とそれほど事情が変わっているわけではないと思うのですが、どういうわけかキリスト教は、それこそザビエル時代の日本人は本当に純粋に信者になっていたのですが、今の日本には馴染みづらいものがある気がします。信者でなくとも式を挙げてくれる商業教会や、クリスマスの大騒ぎは例外としてです。
 スペインの或る地方のマリア祭の様子をテレビでみていた時、特別に選ばれた歌い手がマリア様を讃美するため熱唱していた場面があったのですが、沿道に並んでいる人々も、人ごみの整理あたる警官さえも、感動の涙で頬をぬらしていました。
 祝詞やお経を聴いて大勢の人が涙ぐむ図を、私はみたことがありません。なんと一途で純粋な人たち! と私も泣けてしまいました。
「キリストの人たちって、こういう風に信仰篤いんだよね〜」と一緒にみていた母も感心していました。
 はるか昔のキリシタンの人々が、あのように命がけで信じぬいた姿にもダブりました。身も心も捧げて悔いなし、と感じさせてしまう何かがあるようなのです。すばらしいです。
 それだけに、自分たちの信仰こそが正しくて、あとは異教である、と思い込んでしまう人も少なくありません。魔女狩りや十字軍による大量殺戮をみてください。トランスジェンダーに対する憎悪犯罪をみてください。「キリスト教が唯一絶対」という信奉は、時に恐ろしく危険なものもあります。
 あまりにも「自分たちは絶対」という姿勢があると、あらゆる教えのいいとこ取りを得意としてきた日本人の多くは、ちょっと腰が引けてしまうかもしれません。
 また、多くの本に書いてあり、日米のキリスト者の友人からも聞くことで、私自身も感じ取っているのは、「キリスト教は二つに分けて考えるのが好き」ということです。神と人間、人間と自然、男と女云々と、二元論的な立場が目につきます。
 男と女を分けて考えすぎるために、性的少数者に対して厳しくなるのかもしれません。人間も動物も山も海もみな一つ、みたいに考える土台のある日本人の多くには、神様が人間のためにそれらを創った、という考えは不思議に思われるかもしれません。生きていた人間さえ神社に祀ってしまって平然としている国で、神様と人間が別物とされている状況は、想像しづらいかもしれません。と言いますか、多くの人は、神様と一緒だとか離れているとか、ほとんどそんなことも考えないのではないかと思いますけれど。
 キリスト教が土台になっている国、西洋諸国が多いですが、それらの国の人々の多くも基本的に二元論支持の中で育っているので、色々と分かれていることを不思議だとも思わないのでしょう。
 しかし考えてみてください。キリスト教は一般に「愛」の宗教と呼ばれています。実際信徒の多くをあれほど惹きつけてやまないのは、おそらく愛の力です。そんな信仰者たちが、「自分たちだけが正しくて他はダメな奴らだし、性的少数者は死んでもいい」などと思うものでしょうか。
 そんな尊大で傲慢で冷酷なイエス様を想像できますか? あり得ないことです。「独尊」と「排除」ほどイエス様から遠い言葉はありません。私は大好きなキリスト教の一部の人、かなり大きな一部の人が、このように真髄から遠く離れた心をもっていることが悲しいのです。私はキリスト者ではありませんが(それだからこそ?)、その心がイエス様を嘆かせるであろうことは、心底理解できるのです。
 とは言え個人的な感情だけをぶつけているわけにもいきませんので、少し部外者(?)ではない方々の声も聴きましょう。

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