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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:28   >>

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入り易き門に
私は先ほど日本的なキリスト教になったら世界はもっと平和だ、などと書きましたが、日本で毎日放送されている某キリスト教専門ラジオ番組の中では、少なくとも私が二〇〇七年までに聴いた回に関しては、性的少数者に好意的な言い方をしてくださったことはありませんでした。同性愛も、性同一性障害も、そのように生まれついたのだと聖書が書かれる当時にわかっていて、罪であるような書かれ方をされなかったら、もう少し違っていたのかもわかりませんが――。
 そうは言っても、私はやはり日本的なキリスト教に拍手してしまいます。よい意味でアイマイを好む、大らかな日本の風土に生まれ育った人々はなんとなく、どんなことがあっても他宗教は認めないとか(考えてみると日本にもそのような団体はいくらかあるようですが・・・・)聖書に反する人々は見るのも汚らわしいとか言う人もいるでしょうけれど、それでも西洋のゴリゴリのキリスト者よりも、その「ゴリゴリさ」が弱いように感じるのです。
 私はお寺さんに招かれて講演したことは、これを書いている時点までは二度で、神道関係は一度もありませんが、教会は四度行きました。私を非常勤講師に雇ってくださった最初の私大は、プロテスタント系有名校でした。私と共著をものした初めての宗教者は、神主さんでもお坊さんでもなく女性の牧師さんでした。このようなキリスト者の方々は、自分たちが唯一絶対だなどということは言わず、きわめて冷静で謙虚でした。性的少数者に対しても好意以上のものがあり、イエス様の名において受け入れるのは当たり前である、と考えていました(おもに女性の信徒さんでした)。真面目(・・・)に(・)向き合う(・・・・)から(・・)こそ(・・)の排除もあり、そしてかかわり合いもあるのだということを教えてくれたのです。
唯一絶対ということも、とても広大な視点で考えている人々も多いのです。
「たとえば、もし保守的なキリスト教徒が自分の信じる神が絶対だと言うのなら、それは独断なのです。自分の信じる『神』が絶対なのではありません。むしろ絶対なのは、万人の神の方です。したがって万人の神がキリスト教の神であるというべきです。ここに自分の(信じる)『神』の方を万人の神に合わせる可能性が開かれるのです。こうして、自分の神を偶像化する危険、つまり狂信を脱することができます」(土井健司『キリスト教を問いなおす』ちくま新書)
「キリスト教絶対主義というものは、現代では、間違ったことなのであって、絶対主義を克服して世界の主要な諸宗教との間に、対話が求められなくてはならないと言っているわけです。『イエス』自身は、絶対性の要求なんか何もしていない。人間としてなし得る尊いことを述べただけだ、と書いてあるんです」(八木誠一、秋月龍★みん『禅とイエス・キリスト』青土社)
 また聖書の読み方も色々あって、全てが神様からの霊感によって書かれたとする派や、当時の歴史や風土、習慣を考慮して読むべきだとする人々もいます。私は後者の立場です。旧約はあまりに大部なので読み通すのは困難ですが、新約は何度も読んで、次のように書き手の主観がはっきり入っている所を、いくつか発見しました。
「これを言うのは、主ではなく、私である」(コリント人への第一の手紙七−十二)
「わたしはこう考える」(同七−二十六)
「いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきっていうのである」(コリント人への第二の手紙十一−十七)
 ――まあどれも手紙なので主観が入っても、通常ならば当たり前なのですが、いやしくも聖書の中に入っているということには重要な意味があると思われます。聖書の他の箇所も全て各々書き手がいるわけですけれど、彼らも自分の主観、成育歴から来た判断基準から全く自由であるとは、私は言い切れないと思うのです。
 つまりイエス様だったら絶対書かないであろうことも、少しは書いてある可能性があると思うのです。
 イエス様は、その当時人々からさげすまれていた徴税人や娼婦と親しく接し、周囲の人々の眉をひそめさせました。しかし完き愛の体現者ですから、なんの不思議がありましょう。徴税人も娼婦も、多くの性的少数者と同じく、そうならなくてはならない理由があったのです。私などと違って後天的な理由ではあったでしょうけれど(性同一性障害の原因は特定されていませんが、胎児期の脳の性別が決まる際になんらかのアクシデントがあった、あるいはそのようなアクシデントを起こす遺伝子を持っている人が多くなるものだ等、本人が生まれる前に原因が求められつつあります)、それにしても何らかのやむをえない事情があったためで、自分で選んでそうなったわけではありません。もし選んでそうなったとしても、イエス様は排除するような真似は、決してなさらなかったはずです。その人がその人らしくあるように、その人らしくあることが別の職業によって成されるならばそのようにと、手を差し伸べてくれたはずです。
 また先ほど言及した私と共に本を書いてくれた牧師さんの文の中にも次のような箇所があり、弟子たちにも特別な偏見がなかったことがうかがえます。偏見ある信仰に付いていくのは大変ですからね。少し長くなりますが引用しておきます。
「使徒言行録八章には、フィリポとエチオピアの宦官(宮廷などで位の高い女性に仕えるために、去勢した男性――虎井注)の出会いの物語が記されています。ここでは、宦官がセクシュアル・マイノリティであることを問題視されることなく、福音がのべ伝えられ、洗礼が授けられているのです。旧約の申命記二三章によれば、主の会衆に加わることができないとされた人です。けれども、そのことがここでは問題にされることはありません。洗礼を受けて、キリスト者になることがふさわしくないとは言われないのです。また、洗礼を受けてキリスト者になったら救われるというような条件付きの救いでもありません。そこでは無条件の救いが与えられているのです。
 そして、実はこのエチオピアの宦官は当時『異邦人』と呼ばれ『汚れた民』とされていた外国人です。つまりこの宦官は外国人にキリストの福音が伝えられ、洗礼が授けられた第一号ということになります。ここでは外国人であることも問題にされていません。かつてのように「汚れた者」とも呼ばれていないのです。
 外国人キリスト者第一号が実はセクシュアル・マイノリティだったということはキリスト教会でもあまり知られていないことかもしれません」(大月純子、虎井まさ衛、河口和也共著『性なる聖なる生――セクシュアリティと魂の交叉』緑風出版)
(ちなみにこの二〇〇五年の本の中でも私は精神世界について多く語っていますが、今の私からすると不満足な点が多々あります。みなさんが今お読みのこの本も、今の私にとっての精一杯ですが、二年三年経つと書き直したいと思うところが出てくるかもしれません。それだけ深い領域に関わる仕事をしているのかと思うと幸いです。そして願わくば、宗教全体を含む広大な精神世界の状況、そしてセクシュアル・マイノリティに対する人々の態度がよりよくなったために「書き直したい」と思うようになるよう、微力ながら頑張りたいと思います) 
 そしてキリスト教圏の人々も、もちろん劇的に変貌しています。ニューヨークで私が下宿した先のご主人は、地元の教会の修道士でしたが、女性から男性へ性転換した人でしたし、周囲の信者さんも全員そのことをよく知った上で、とてもフレンドリーでした。やはり私の友人の元女性は、ユニテリアン・ユニヴァーサリストという、三位一体を教義としない教派に属して、大々的に活動しています。同性愛の人々の受容については、もっと進んでいる教派も多く存在します。
 人は知らないものを恐れます。性的少数者について真実を知らない人々は、ただ「聖書に反している」「自分たちと違う」などという理由でひどい暴力の矛先を向けてくることがあるのです。しかし、同じ聖書には、こうもあります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」(ヨハネの第一の手紙四――十八〜十九)
完き愛の信仰であるはずのキリスト教こそが、我々にとってもっても入り易き門であるべきだと、少なくとも私は思うのです。

静まりて知れ
 二つに分けて考えがちとは言っても、そこは「T章的」な所はしっかりとあるので、とても嬉しいのです。『荒野の泉』(レテー・B・カウマン著、山崎亭治訳、福音文書刊行会)は、一日一話の形で美しいキリスト教的文章が収められている本ですが、実に多くのページが、沈黙と「心静め」について語っています。例えばこんな一節には、私は感動してしまうのです。
「すべての詩篇の中で『セラ』(黙せ)という一語のように、雄弁な言葉がどこにあろうか・・・・・・わたしたちの心臓の激しい言葉を平静にするものは、『すべての人の思いに過ぐる神の平和』であり、また『おだやかにして寄り頼むこと』はすべての力の本源であり、『何物によっても感情の乱されない平和』こそ、この世が与えることも奪うこともできない深い安息である。魂の最も深い中心に神の住みたもう所があり、わたしたちが、そこに入りこむならば他のあらゆる雑音をしずめ、神ご自身の静かな細い声を聞くことができる」――魂の最も深い中心に神の住みたもう所があり。こんなことを聞くと、T章そのものを表した一文ではないか! と、つい思ってしまいます。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇四十六――一〇)
 しかしカトリック教会などでよく行う「黙想」とは、心を静めて何も考えずに「感じて」生きることを主体に説いた、T章のようなものではありません。黙って「想う」わけで、想う対象があるのです。神様について、その御意志について、イエス様や使徒たちの行い、思い、キリスト者として魂を向上させる色々なことについて、深く心を静めて魂の内側に入りこむようにして想いめぐらすのです。
 その深さは禅の公案の時のようでいて、とは言え仏教的な悟りとは違うとは思われますが、人によってはある段階に到達し、より一層神様の御旨に従っていくために自己を滅しようと思いたちます。
 その結果である場合もあるでしょうし、あるいは常日頃心を静めて主に思いをはせている人が突然ということもあるでしょうが、キリスト教にも神秘体験ということがあります。「にも」というのは不適切ですね、キリスト教は神秘のかたまりですから。

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