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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:26   >>

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その神秘体験
 数々の病人を癒し、死人を蘇らせ、水の上を歩くなど様々な奇跡を起こし、ご自分が死んだ後に復活したというイエス様は、まさに神秘の人ですし、その弟子たちの行状も奇跡のオンパレードです。「新約聖書」はかなりエキサイティングなので、ぜひご一読ください。
 キリスト者の中にも、「水の上を歩いたり天から多くの食べ物を降らせたりというのは、何かの比喩であって事実ではない」という立場の人も少なくありません。私は女装や同性愛はよろしくない云々と書かれている箇所は、聖書筆記者の主観によるもので、まともに受けとめなくてもよいと思っていますが、これらの奇跡は事実だと信じています。真にすぐれた超能力者は、物の分子構造を変えることができるので、水の上を歩いたり、空中に物体を出現させたりすることも可能だからです。そして偉大なヒーラーは、まさに手を当てただけで病を癒すことができるのです。
 とは言えそれらが神秘的であることに変わりはないでしょう。昔も今も、そういうことを目のあたりにした人々は、どれほど驚いたことでしょう。
 けれども後世の信仰者にとっての神秘体験は、別の形で起こる場合がほとんどです。ここではキリスト教的なものとしてよく言われる「聖痕」や「ルルドの泉の奇跡」などには触れず、「離脱」や「神との一致」といったものを取り上げます。これらはとてもT章的なもののように私には感じられるのですが、一致し得ないと言われるところもあり、重なったり離れたりで、なんだかとても魅力的なのです。(けれども私はやはりT章的ではないかと思います)。
 キリスト教神秘家は、過去から現在に至りまで数多く輩出され、当事者による著作も多く残されています。美術的なテーマにもよく用いられ、ローマにあるマリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂の、ベルニーニ作の麗しい彫刻「聖テレサの法悦(あるいは「聖テレサの脱魂」)」なども有名なものです。
 聖テレサは一六世紀のスペインのカルメル修道会の修道女で、幾度もの神秘体験から確立された燃えたぎる神様への愛を、数冊の本に表しています。そのうちの『霊魂の城』などを読みますと、神様との合一について書かれたところが限りなくT章的なのです。
 ここでは「脱魂」という言葉がありますけれども、「離脱」という言い方も一般的です。これについて私はなんだかんだと書かれたものをたくさん読みましたが、自分としては、「この世の全てのもの、そして自分自身からも心を離し、ただ神様ひとすじになること」という解釈でいます。次のようなキリスト者の言い回しは、とても好きなものです。
「あなたの『自己』からすっかり離れ、神の『自己』に溶け入り、あなたの『自己』が神の『自己』の内で完全に一つの『自己』となるようにしなければならない」(エックハルト)
「一切の事物が魂にとって無となることろ、そこに魂は神的本性へと通ずる秘められた入口を持つのである」(アウグスチヌス)
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙二――二〇)
 これらは実に、「内なる神と一つになる」典型的な言い表し方と思われて仕方ないのです。
 あらゆる神秘体験は、これは私や私の友人たちも経験していることですが(ここに挙げる聖人たちのものと較べるのも不遜ですけれど、神秘体験に大小はない気もします)、何の前触れもなく突如として起こります。こちらの都合ではないのです。やや言えることは、神仏を信じ敬い、神秘体験を謙虚に待ち望む姿勢がある人の方に起こりやすいのではないかということです(コックリさんなど遊び半分に手を出さない方がよいということです。それは同じ神秘でも危険な神秘で、「大いなるもの」を目指すものでなくては、体験する意義がありません)。
 聖テレサの場合は、「私に分かることは、火縄銃に火をつけたとき、弾丸の飛び出すあの速さで、霊魂の内部に一つの飛翔――私は他に何と呼んだらよいか分かりません――が行われます・・・・・霊魂が自己超越の状態にあるとき、霊魂に分かる限りにおいて、偉大なことが示されます。霊魂が我に帰ったとき、霊魂はこの上もなく大きな益で満たされているので、自分の見たものと比べたら、塵にしか見えないこの世のあらゆるものをまったく空しく感じます」(アビラの聖女テレサ著、鈴木宣明監修、高橋テレサ訳『霊魂の城   神の住い』聖母文庫)と述べています。
 また、一五世紀のやはりスペインに生まれたイエズス会のイグナチオ・ロヨラは、ある日カルドネル河畔に坐っていると突然に「魂の眼が開け始めた。そのとき、示現を見たのではなく、多くのことを理解し悟った。多くの霊的な事柄、信仰と学問に関する多くの事を悟ったのである。非常に偉大な照明が与えられたので、すべては全く新しく思われた。そのとき、理解したことはたくさんあったが、それらの細部を記述することはできない。しかし、魂に偉大な明晰さを受けた。六十二歳になる今日までの生涯を通じて、神が教えてくださったすべてと、自ら学んだすべてを総括しても、このとき一度で受けた照らしには到底及ばないように思われる・・・・・そのとき、あたかも別の人間になったように思われ、これまでとの別の知性を得たように思われるほど魂は照らされたのである」(イグナチオ・ロヨラ著、門脇佳吉訳『霊操』岩波文庫)ということなのです。
 ロヨラの場合は仏教の悟りと違うところはないようですし、前の聖テレサのような神様との合一とは趣を異にしているようにも見えますが、実は聖テレサが言うところの「霊魂に分かる限りにおいて、偉大なこと」を知ったのです。神秘の扉は、いずれの場合も開かれたのでしょう。
 このような体験を得たキリスト者は、もう一途に神様への愛に燃え上がり、全く自己を滅して、ただキリストにのみ満たされたいと強く強く願うようになります。この世的なものは全て色あせ、ただただ天へと心を向ける、いえ、内なる神そして外なる神と一つになることを祈るのです。
 とは言え世俗に生きる人であれば、いつも脱魂していては食べていけないではないかと思われますが、「心静め」ではありませんけれども、何をしていても常に神様の内にある状態になってこそ、本物と呼んで然るべきなのでしょう。

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