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<<   作成日時 : 2008/09/03 14:13   >>

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謙遜
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイによる福音書二三――十二)
「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでなお従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った」(ピリピ人への手紙二――三〜九)
 もちろん一般的にもすばらしい徳ですが、キリスト教において「謙遜」は、絶大なる美徳です。この一文にも、イエス様でさえ「神と等しくあることを固守すべき事と思わず、かえって、おのれをむなしうして」とあることで、それなのにこの私がそんな大それた望み、神様になりたいなどという望みを持ってはならない、と信徒が考えるのは当然かもしれません。
 自分を空しゅうすればするほど、そこにキリストが満ちて、高く引き上げられる――私にしてみると、心を静め内なる神様とつながって、人生にあらがわずに今ここを生きていくことは、この実践版だと思われますが・・・・・・。
 また、いわゆる「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者と」することは、いわゆる日本語の辞典的意味合いの謙遜とほぼ同じであると思われますけれども、先述した日本人キリシタン霊と交信(信じていただけるとよいのですが!)した時に、私がそういった意味で謙遜という言葉を使った際、「その謙遜の解釈はどうかと思うが」と戸惑われたので、不思議な感じをもちました。
 後日、イグナチオ・ロヨラの『霊操』(先述)を読んでいて、「ああ、あの霊はこちらの意味で、もっぱら<謙遜>という言葉を使っていたのかな」と思うところがあったのです。それはもっとずっと厳しい、能動的な謙遜でした。
(「霊操」というのは「体操」の霊版、つまり霊のエクササイズです。ロヨラは自分が得た大きな神秘体験を何とかして人々に伝え、「各人が神様の御意志を見出す」助けとするために、この方法を編んだのだそうです。この本の門脇佳吉氏による改題に、謙遜についての端的な説明がありました)
「霊操者は『謙遜の三段階』の考察を行う。この場合、『謙遜』とは、聖書的意味の謙(へりくだ)りである。神の前に平伏し、どんな困難があっても、神の御意志を遂行しようとすることである。謙遜の第一段階の人は自分の生命を危うくすることがあっても、背けば大罪となることは絶対に行わない。第二段階の人は、生命が脅かされることがあっても、小罪を犯そうという考えさえも起こさない。第三段階に達した人は、キリストへの愛に燃え、貧しく、蔑まれ、愚者となったキリストにより一層似るものとなるために、貧しく、蔑まれ、愚者と見なされることを望むのである。そのようになることによって、徹底的に自我を滅却し、キリストに全く似たものになる。そうするならぱ、父なる神がキリストに御意志を打ち明け、キリストがその御意志を実行したように、父なる神から御意志を打ち明けられ、霊操者はそれを実行することができるようになる」
 ――ここまでするとなると、厳しいですよね・・・・・・。「徹底的に自我を滅却」ということは、T章や他の教えにも共通しているところではありますが、キリスト教の場合には、内にあるものを大きくするために自分をなくすのではなく、外にあるものを、より多く取り入れるために自分を小さくするようにしているので(神様とは内にも外にもどちらでもおられるので、同じではないかと私などは思ってしまいますが)、絶対に「私は小さき者。塵のような者」という姿勢になっています。

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